山梨の古道と地質

現在の山梨県には、古代より人々が往来していた9つの街道である甲斐九筋と名付けられた街道があります。
これらの道は酒折宮を起点とし、他国との交易や巡礼者の道、また、戦時には軍事用の道としての役割を果たしました。

甲斐九筋は現在でも国道や県道として存在している場所も多く、歴史を通じて道路整備が行われてきました。また、峠などかつての難所にはトンネルがつくられるなど、一部経路を変えながら日々進化しています。

甲斐九筋(山梨の古道)
地図は国土地理院地図色別標高図

甲斐九筋以外に、江戸時代になると甲州街道も整備され、他にも八ヶ岳山麓の東側を辿る佐久往還なども歴史的に主要な役割を果たしてきました。

多くの街道は高低差が少なく、人が行き交いやすい川沿いなど谷筋にそって発達します。しかし山の峰を越える必要がある場合、峠を越えて街道が発達してきました。これらの街道と地質図とを重ね合わせてみると、基本的には谷筋を選んでおり、断層や地層の変わり目にあるものが多く見られます。また、山間部の峠越えの場合でも鞍部と呼ばれる標高の低い尾根を横切るように道がとられていることが多くあります。

断層は大地のずれ目であり、この部分の地層は風化しやすいため川ができやすく谷地形を作ります。

河内路、西郡路、逸見路は富士川、釜無川とも近い位置にあり、人々が河川を道標としてきたこともよく表しています。地質学的にはフォッサマグナと呼ばれる日本列島の東西と南北を分ける地域の西端に相当する糸魚川―静岡構造線とだいたい重なります。

関東甲信越地域では富士山の見える場所が数多くあります。かつて日本人の祖先であった人々が、地図すらない時代に北極星を頼りに長い道のりを渡り、そして、この地に辿り着いた時、今度は富士山をランドマークとしながらこれらの街道を行き来したことでしょう。

地質学やプレートテクトニクスのない時代から、人々は地形を利用して行き来し、自然と人間社会の折り合いをつけながら、それぞれの風習や文化を発展させてきたのです。